中国と日本の歴史を見てみよう
日本と中国の関係は、古代から現代に至るまで非常に深く、多岐にわたります。その歴史を振り返ることで、現在の複雑な関係の背景を理解できます。
古代から中世の日中関係
古代の交流
紀元前2世紀頃には、すでに中国の歴史書『漢書』に日本のことが記載されており、交流が始まっていたとされています。弥生時代には、中国の文化や技術が日本に伝わり、稲作などが広まりました。
飛鳥・奈良時代の交流
飛鳥時代には、遣隋使(589年~618年)や遣唐使(630年~894年)が派遣されました。これは、仏教や律令制度、漢字など、中国の先進的な文化や政治制度を学ぶためでした。例えば、遣唐使は最澄や空海といった僧侶も同行し、仏教の新しい宗派を日本に持ち帰りました。
中世から明の時代
鎌倉時代以降、日本では武士が中心となり、中国との交流は貿易が主になりました。室町時代には、日明貿易(勘合貿易)が行われ、日本の刀剣や硫黄、銅などが中国の生糸や陶磁器などと交換されました。
江戸時代(鎖国時代)
江戸時代の日本は、中国との関係において、主に長崎の出島を窓口とした限定的な交流を行っていました。この時代、日本は鎖国政策をとっていましたが、中国(当時の清国)とオランダとは例外的に貿易を継続していました。
江戸時代の中国との関係
江戸時代の日本と中国(清)の関係は、政治的な関係というよりも、経済的・文化的な交流が中心でした。徳川幕府は「鎖国」と呼ばれる政策をとっていましたが、これはすべての国との交流を断つことではなく、貿易を幕府の管理下に置き、キリスト教の布教を防ぐことが目的でした。このため、中国やオランダなど特定の国との貿易は認められていました。
貿易の拠点:長崎
中国との貿易は、長崎に限定されて行われました。清国からの商船は、長崎港の唐人屋敷に滞在し、日本の商人と取引を行いました。貿易品としては、中国からは生糸、砂糖、漢方薬などが輸入され、日本からは銀や銅、海産物などが輸出されました。特に生糸は、当時の日本の産業にとって非常に重要なものでした。
文化的交流
貿易を通じて、中国の文化や学問も日本に伝わりました。儒学(じゅがく)や漢方医学、書物などが輸入され、日本の文化に大きな影響を与えました。また、清国から渡来した僧侶や学者は、日本の学者たちと交流し、知識の交換が行われました。
江戸時代の主な事件・事変
江戸時代には、中国との間に大規模な戦争や事変は発生していません。しかし、貿易や文化交流に関連するいくつかの出来事がありました。
鎖国の完成とキリスト教対策
17世紀初頭、徳川幕府はキリスト教の取り締まりを強化し、外国船の来航や日本人の海外渡航を厳しく制限するようになりました。この政策は、中国との関係にも影響を与え、貿易を長崎に集中させることにつながりました。
密貿易の取り締まり
幕府は、長崎での正規の貿易以外に行われる密貿易を厳しく取り締まりました。中国商船の中には、密貿易に関わるものもいたため、幕府は監視を強化しました。
琉球王国との関係
琉球王国(現在の沖縄県)は、江戸時代に日本(薩摩藩)と中国(清)の両方に属国として扱われていました。琉球の使節は、江戸時代を通じて定期的に江戸へ行き、将軍に拝謁していました。これは、清と日本が琉球を介して間接的に交流していた例と言えます。
江戸時代の日本と中国の関係は、今日の国際関係とは異なり、限定的で管理されたものでしたが、経済的・文化的交流は継続し、日本の社会や文化に深い影響を与えました。
近代:戦争と覇権争いの時代
明治維新後、日本は西洋諸国に倣い、国力を高めていきました。この時期、朝鮮半島を巡って中国(清)との関係が悪化し、戦争へと発展していきます。
明治維新後の関係
日清修好条規
1871年(明治4年)、日本と清の間で「日清修好条規」が結ばれ、両国が対等な関係であると定められました。しかし、その後、琉球や朝鮮を巡って対立が深まっていきました。
台湾出兵(1874年)
1874年(明治7年)、台湾で遭難した琉球の人々が殺害された事件をきっかけに、日本は台湾へ軍隊を送りました。この出兵後、清は日本の行動を認め、賠償金を支払いました。これにより、琉球は日本の領土であるという認識が高まりました。
琉球処分(1879年)
1879年(明治12年)、日本は琉球王国を廃止し、沖縄県を設置しました。これは、清が琉球を自国の属国と考えていたため、清との関係をさらに複雑にする出来事となりました。
甲申政変(1884年)
朝鮮で、開国を求めるグループと清との結びつきを重視するグループが対立し、日本は前者を支援しました。この政変は失敗に終わりましたが、これにより朝鮮を巡る日清の対立がさらに激しくなりました。
日清戦争と三国干渉(1895年)
1894年(明治27年)に始まった日清戦争で、日本は勝利し、清と下関条約を結びました。この条約で、清は朝鮮の独立を認め、台湾などを日本に譲りました。しかし、その後ロシア、ドイツ、フランスが日本に圧力をかけ、遼東半島を清に返還させました。これを三国干渉と呼びます。
義和団事件(北清事変、1900年)
義和団事件とは、中国の華北地方で発生した、外国人排斥を掲げる大規模な民衆運動と、それに続く国際紛争です。日本では「北清事変」とも呼ばれます。
発生の背景
- 列強による植民地化の進行: 日清戦争(1894年)で清が敗北した後、欧米列強や日本による中国分割が急速に進みました。これに対し、中国民衆の間で外国への不満と危機感が高まりました。
- キリスト教への反発: 不平等条約によって外国人のキリスト教布教活動が保障され、キリスト教会が特権的な地位を得ました。また、多くの信者が教会の庇護下に入ったことで、伝統的な社会秩序が乱され、農民たちの不満が高まっていました。
- 清朝政府の腐敗: 日清戦争の敗北と多額の賠償金支払いによって、清朝の権威は失墜し、民衆の生活は困窮していました。
義和団の蜂起と拡大
- 義和団: 白蓮教系の秘密結社を起源とする宗教的結社で、「扶清滅洋(清を助け、西洋を滅ぼす)」をスローガンに掲げていました。彼らは呪文を唱えれば刀剣でも傷つけられないという呪術的な信仰を持っていました。
- 運動の開始: 1899年頃、山東省で義和団がキリスト教会や外国人宣教師を襲撃する事件が頻発しました。
- 清朝の対応の変化: 当初、清朝政府(実権を握っていた西太后)は義和団を鎮圧しようとしましたが、勢いが衰えないと見て、外国人排斥の姿勢を強める保守派の意向もあり、1900年には義和団を支持する側に転じます。
- 北京での攻防: 1900年6月、義和団は北京に入城し、列国公使館区域を包囲攻撃しました。
8カ国連合軍の出兵と事件の鎮圧
- 8カ国共同出兵: 各国の公使館が襲撃されたことを受け、日本、ロシア、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアの8カ国が連合軍を結成し、出兵しました。
- 日本の大量派兵: 日本は連合軍の中で最も多くの兵力を派遣しました。これは日本の権益拡大や、南下するロシアを牽制する狙いがありました。
- 鎮圧: 8カ国連合軍は義和団を鎮圧し、北京を占領。清朝政府は敗北しました。
事件の結末
- 北京議定書(1901年): 清朝政府は列強と「北京議定書」を締結しました。
- 巨額の賠償金: 清は列強に多額の賠償金を支払うことを義務づけられました。
- 外国軍隊の駐留: 列国公使館区域に外国軍隊の駐留を認めさせられました。
- 中国の半植民地化: 北京議定書によって清はさらに列強からの支配を強められ、半植民地化が進行しました。
- 日露戦争の遠因: 事件終結後もロシアが満州からの撤兵に応じなかったことは、日本の警戒心を高め、日露戦争へとつながる遠因となりました。
日露戦争(1904年~1905年)
日露戦争は、1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて、日本の大日本帝国とロシアのロシア帝国の間で、朝鮮半島と満州(現在の中国東北部)の支配権をめぐって行われた戦争です。近代化を進める新興国日本が、大国ロシアに勝利したことは、世界に大きな衝撃を与えました。
開戦までの背景
- 日清戦争後の対立: 日清戦争後、日本が遼東半島を清から獲得すると、ロシアはドイツ・フランスを巻き込んだ「三国干渉」で、日本に遼東半島の返還を要求しました。これを受け入れた日本国内では、ロシアへの反感が強まり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に国力の増強を図りました。
- ロシアの満州占領: 1900年の義和団事件後、ロシアは満州に軍隊を駐留させ続け、撤兵を拒否しました。さらに、朝鮮半島への影響力拡大も進めたため、日本の安全保障上の脅威となりました。
- 日英同盟の締結: ロシアの南下政策に対抗するため、日本は1902年にイギリスと日英同盟を結びました。これにより、日本とロシアの対立は決定的になりました。
- 開戦の決断: 外交交渉による解決が難航したため、日本政府は1904年2月、ロシアとの国交断絶と開戦を決定しました。
戦争の経緯
- 開戦: 1904年2月、日本海軍がロシア艦隊の拠点であった旅順港を奇襲攻撃し、開戦しました。
- 陸戦: 戦場は満州南部の遼東半島や奉天となりました。日本軍は旅順攻囲戦で多大な犠牲を払いながら要塞を攻略し、奉天会戦ではロシア軍を打ち破りました。
- 日本海海戦: 1905年5月、バルチック海から7カ月かけて回航してきたロシアのバルチック艦隊と、日本の連合艦隊が対馬沖で激突しました。この日本海海戦で、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊がバルチック艦隊をほぼ全滅させ、日本の勝利を決定づけました。
戦争の終結とポーツマス条約
- 戦争継続の困難: 陸海ともに日本が優勢でしたが、戦争の長期化により日本の戦力と国力は限界に達していました。一方、ロシア国内でも革命運動が勃発するなど、戦争継続が困難になっていました。
- 講和条約: 1905年9月、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により、日露両国はポーツマスで講和条約(ポーツマス条約)を締結し、戦争は終結しました。
- 日本が獲得した主なもの:
- ロシアの朝鮮半島における日本の優越権を承認。
- 遼東半島(旅順・大連を含む)の租借権。
- 長春以南の南満州鉄道の利権。
- 樺太(サハリン)の南半分を割譲。
- 賠償金: 日本はロシアから賠償金を得ることはできませんでした。
- 日本が獲得した主なもの:
戦後の影響
- 日本国内の不満: 賠償金が得られなかったことで、国民は大きな不満を抱きました。この不満が日比谷焼打ち事件などの暴動につながり、桂太郎内閣は総辞職。民衆の政治意識が高まり、民主主義を求める思想や社会運動(大正デモクラシー)につながっていきます。
- 日本の国際的地位向上と帝国主義: 勝利した日本は国際社会での地位を高め、台湾や朝鮮の統治を進めていきます。
- アジア諸国への影響: 日本が欧米列強に勝利したことは、植民地化されていたアジア諸国の民族運動に大きな希望を与え、独立への希望を与えました。
- ロシア革命の誘因: ロシアの敗北は、皇帝の権威失墜と国民の不満を高め、1905年のロシア革命を引き起こす一因となりました。
満州事変(1931年)
満州事変は、1931年(昭和6年)9月18日に中国東北部(満州)で、日本陸軍の関東軍が南満州鉄道の線路を自ら爆破し、これを中国軍の仕業として攻撃を開始した出来事です。この事件は、15年に及ぶ大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)の出発点となり、日本の国際的な孤立を招きました。
原因と背景

- 権益の拡大と保護: 日本は日露戦争以来、南満州鉄道の利権など満州における様々な権益を持っていました。しかし、中国の民族主義の高まりによって、これらの権益が脅かされるという危機感が軍部の間にありました。
- 軍部の独走: 政治家や外交官が協調外交によって満州問題を解決しようとする中、満州の軍事的支配を強めたい関東軍の一部将校が、政府の意向に反して武力による事態解決を図りました。
- 世界恐慌の影響: 1929年の世界恐慌の影響で、日本経済は深刻な不況に陥っていました。満州の豊かな資源は、不況を脱する活路として期待されました。
- 軍縮への反発: 国際的な軍縮の流れが強まる中で、軍内部には政治家や外交官への反発がくすぶっており、強硬な態度で国益を守ろうとする動きが強まっていました。
経緯
- 柳条湖事件: 1931年9月18日夜、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破されました。
- 関東軍の攻撃開始: 爆破は関東軍が行ったものでしたが、関東軍はこれを中国軍の仕業だと主張し、奉天の中国軍施設を攻撃しました。
- 不拡大方針の無視: 当時の若槻礼次郎内閣は、事態を「不拡大」で収拾しようとしましたが、関東軍は命令を無視して満州全土へ軍事行動を拡大しました。
- 満州国の建国: 関東軍は満州全土を占領し、1932年3月には清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)を執政とする傀儡国家「満州国」を建国しました。
国際社会の反応と影響
- 国際連盟の調査: 中国は国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣されました。調査団は日本の行動を侵略行為と認定しました。
- 日本の国際連盟脱退: この報告書を受けて国際連盟総会が日本の行動を非難すると、日本は国際連盟を脱退し、国際社会での孤立を深めました。
- 軍国主義化の加速: 国内では軍部の独走が抑えられなくなり、五・一五事件などを経て政党政治が終焉し、軍部の政治的影響力が強まっていきました。
- 五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に、海軍の青年将校らが武装蜂起し、犬養毅首相を暗殺したクーデター未遂事件です。この事件は、1920年代から続いていた政党内閣の時代を終わらせ、軍部が政治に介入する大きなきっかけとなりました。
- 五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に、海軍の青年将校らが武装蜂起し、犬養毅首相を暗殺したクーデター未遂事件です。この事件は、1920年代から続いていた政党内閣の時代を終わらせ、軍部が政治に介入する大きなきっかけとなりました。
- 戦争の拡大: 満州事変は、その後の日中戦争、そして太平洋戦争へと続く日本の軍事拡大の第一歩となりました。
盧溝橋事件(1937年)
1937年(昭和12年)7月7日に、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突した事件です。この事件をきっかけに、日中間の全面戦争である日中戦争が始まりました。
事件の経緯
- 発端(7月7日): 北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習を行っていた日本軍が、中国軍から発砲されたと主張。日本軍の兵士1名が行方不明になったことも原因とされましたが、この兵士は後に帰隊しています。
- 日本軍の攻撃開始(7月8日): 事件翌朝、日本軍は中国軍に対して攻撃を開始。
- 停戦協定と拡大: 衝突後、現地では停戦協定が結ばれたものの、日本の近衛文麿内閣は軍の要求に応じて増兵を決定。これに対抗して中国側も抗戦の構えを強め、事態は悪化しました。
- 全面戦争への突入(7月28日): 日本軍は北京・天津地区への総攻撃を開始し、日中間の全面戦争に突入しました。
事件の背景
- 華北への圧力: 日本は満州事変以降、中国華北地域への進出を強め、中国軍との緊張関係が続いていました。
- 偶発的な衝突: 盧溝橋事件は、計画的なものではなく、偶発的な衝突がきっかけであったとされています。しかし、当時の日本政府や軍部には、事態を早期に解決する姿勢が欠けていました。
- 軍部の独走: 一部の強硬派が、政府の不拡大方針に反して派兵を強行したことが、事態の全面戦争化を招いた一因とされています。
事件後の影響
- 日中戦争へ: 盧溝橋事件は、8年間に及ぶ日中戦争の決定的な契機となりました。
- 日本の国際的孤立: 日中間の衝突は国際社会の注目を集め、日本は国際連盟を脱退していたこともあり、さらなる孤立を深めました。
- 軍国主義化の加速: 事件後、日本では「暴支膺懲(ぼうようちょう・暴虐な中国を懲らしめる)」というスローガンが広まり、戦争ムードが高まりました。
日中戦争(1937年~1945年)
盧溝橋事件から始まった戦争は、日中両国に甚大な被害をもたらしました。
日中戦争は、1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに始まった、日本と中国との全面的な戦争です。当初、日本政府は事態の不拡大を望む声もあったものの、軍部の独走によって戦線は拡大し、長期化しました。

戦争の経緯
開戦のきっかけ
- 盧溝橋事件(1937年7月): 北京郊外の盧溝橋で、夜間演習中の日本軍が中国軍からの発砲があったと主張。兵士1名が行方不明になったこともきっかけとされましたが、この兵士は後に帰隊しています。
- 軍の拡大方針: 当初、日本政府内には事態を不拡大で収拾しようとする動きがあったものの、強硬な拡大派が主導権を握り、本土からの派兵を決定。中国も抗戦の構えを強め、全面戦争に発展しました。
- 上海への拡大: 8月には上海でも日本軍と中国軍が衝突し、日本は大規模な出兵を決定。戦火は中国全土に広がりました。
戦線の拡大と長期化
- 中国の抗戦: 満州事変以降、内戦を続けていた中国国民党と共産党が「国共合作」によって手を組み、日本軍に対して粘り強く抗戦しました。
- 中国国民党: 蒋介石(しょう かいせき)
- 孫文(そんぶん)の後を継いで党を率い、日中戦争中は中国の中央政府である国民政府の主席を務めました。
- アメリカなど連合国の支援を受け、日本軍と戦う一方で、共産党との内戦も継続していました。
- 中国共産党: 毛沢東(もう たくとう)
- 1935年の遵義会議で党の主導権を確立し、日中戦争を通じて党と軍(紅軍)の指導者となりました。
- 日中戦争中は国民党と協力して抗日統一戦線を組みましたが、日本軍の敗戦後には国民党との内戦を再開し、勝利しました。
- 中国国民党: 蒋介石(しょう かいせき)
- 日本の深入り: 日本は戦争を短期で終わらせるつもりでしたが、中国軍の抵抗により戦線は拡大し、泥沼化しました。
- 日本の占領地: 日本軍は、北京や上海といった主要都市を占領したものの、中国奥地での抵抗は続き、広大な中国大陸を完全に制圧することはできませんでした。
戦時下の日本
- 国家総動員: 戦争の長期化により、日本は国家総動員法(1938年)を制定。国民生活や経済全体が統制され、戦争遂行のために動員されました。
- 国家総動員法は、日中戦争が激化する中で、戦争遂行のために国家の資源と国民の労働力を政府が自由に使えるように制定された日本の法律です。この法律は、1938年(昭和13年)4月1日に公布・施行されました。
- 国家総動員法の目的と内容
- 国家総動員法は、国家の人的・物的資源をすべて戦争のために動員することを目的としていました。これにより、国民生活のあらゆる分野が政府の統制下に置かれました。この法律は、国民の自由な経済活動や職業選択を制限する強力な権限を政府に与えました。
- 主な権限
国家総動員法には、政府に次のような権限を与える条項が含まれていました。
労働力の統制: 国民の職業を政府が決定し、特定の産業や地域への移動を命令する権限。
物資の統制: 企業に対して、生産する品目や数量を指示したり、物資の配給を管理したりする権限。
価格の統制: 物価を政府が定めることで、インフレ(物価の上昇)を抑え、生活を安定させる権限。
資金の統制: 銀行や企業の資金の流れを管理し、軍事産業に資金を集中させる権限。 - 法律の影響
この法律により、議会の承認なしに政府が命令を発することができるようになり、事実上、国民生活のすべてが政府の管理下に置かれました。これにより、日本は戦争を続けるための体制を強化しましたが、同時に国民の自由は大きく制限されました。 - 国家総動員法と国民生活
物資不足: 多くの物資が軍事目的に優先的に使われたため、食料や衣類などの生活物資が不足し、国民は不自由な生活を強いられました。
勤労動員: 学生や女性を含む多くの人々が、工場や農村に動員され、軍需生産などに従事しました。
言論統制: 戦争に反対する意見や、政府に批判的な言論は厳しく取り締まられました。
国家総動員法は、第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)12月に廃止されました。この法律は、戦争中の日本の社会がどのように動員され、国民の自由がどのように制限されたかを示す重要な例です。 - 補足:徴兵制度と、国家総動員法の違いについて
- 徴兵制度は1927年(昭和2年)に制定された制度で、国民を兵士として戦争に参加させる制度でした。国家総動員は、主に物的・人的資源を戦争のために統制する仕組みです。これには、工場での生産、物資の配給、国民の職業選択の自由の制限などが含まれ、兵士でない一般市民の生活も厳しく管理されました。
- 国家総動員法は、徴兵制度の対象外であった女性や高齢者、学生なども軍需産業や農作業に動員する根拠となり、国民生活のあらゆる面を戦争に集中させました。つまり、招集令状(赤紙)が男性を兵士として戦地に送るための制度だったのに対し、国家総動員法は、残された国民全員を戦争を支えるために動員するための法律だったと言えます。
- 国民生活への影響: 食料や日用品が不足し、国民は困窮しました。
- 国際的孤立: 日中戦争を続ける日本に対し、アメリカやイギリスは厳しい経済制裁を実施。国際連盟を脱退していた日本は、国際社会でさらに孤立しました。
太平洋戦争への拡大と終結
- 資源獲得: 戦況打開のため、日本は東南アジアへの進出を強め、アメリカなどとの対立が激化しました。
- 太平洋戦争: 1941年12月、日本軍は真珠湾などを奇襲攻撃し、太平洋戦争に突入しました。日中戦争は、太平洋戦争の一部として継続されました。
- 日本の敗戦: 1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したことで日中戦争は終結しました。
戦後の影響
- 日本の植民地帝国の崩壊: 明治以来築き上げてきた日本の植民地支配体制が崩壊しました。
- 東アジアの変革: 地域の情勢が大きく変化し、中国では共産党が権力を掌握する要因の一つとなりました。
- 歴史認識: 日本と中国の間で、戦争の呼称や歴史認識をめぐる問題は、現在も続いています。
南京事件(1937年)
南京事件は、日中戦争当初の1937年12月、日本軍が中華民国の首都・南京を占領した際、多数の中国軍捕虜や非戦闘員を殺害し、略奪、放火、強姦などを行ったとされる事件です。ただし、犠牲者数や事件の実態については日中両国や研究者の間で論争があり、見解が分かれています。
事件の概要
- 時期と場所: 1937年12月13日の日本軍による南京占領から、数週間の間にわたって行われたとされています。
- 背景:
- 戦線拡大: 1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発し、戦線は華北から上海へと拡大。日本軍は当初の不拡大方針から一転して南京攻略を目指しました。
- 軍紀の乱れ: 準備不足のまま進軍した部隊は、食料や物資の現地調達を余儀なくされ、略奪や暴行が頻発したとされています。また、中国兵に対する蔑視意識や、便衣兵(軍服を脱いで民間人に紛れ込んだ兵士)への警戒感が高まっていたことも背景にあります。
- 指揮官の不在: 南京攻略戦中、司令官の松井石根が病気で直接指揮を執れなかったことも、現場部隊への統制が行き届かなかった一因とされています。
事件の内容
- 捕虜の大量殺害: 降伏した中国軍の兵士が、戦時国際法に反して組織的に殺害されたとされます。
- 民間人の殺害: 敗残兵とみなされた一般市民も虐殺の犠牲になったとされています。
- 強姦・略奪・放火: 女性に対する性暴力が横行し、街では略奪や放火が頻発しました。
- 安全区: 事件発生時、南京に住む欧米人らが「安全区」を設置し、多数の中国人を保護しました。彼らの残した日記や報告書は、事件の記録として重要な資料となっています。
戦後の評価と論争
- 極東国際軍事裁判(東京裁判): 南京事件は、戦後の東京裁判で戦勝国による裁きの対象となりました。裁判では、日本軍による残虐行為が認定され、松井石根司令官がBC級戦犯として処刑されました。
- 犠牲者数:
- 中国側: 南京軍事法廷では「30万人以上」と認定され、現在も中国政府はこの数字を主張しています。
- 日本側の研究: 日本の研究者の間では、犠牲者数を数十万と見る立場から、数千から数万と見る立場、虐殺自体を否定する立場まで、様々な見解があります。
- 事件の有無: 事件の有無や規模、便衣兵の扱いをめぐる論争は続いており、歴史認識問題として日中関係に影響を与えています。日本政府は、非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは認めていますが、犠牲者数など詳細な内容については認識を示していません。
- アパグループ代表の元谷外志雄氏(ペンネーム:藤誠志)による書籍『理論 近現代史学』シリーズでは、南京事件について「あり得ない」「中国側のでっちあげ」と否定する記述がなされています。
- この主張の根拠として、同書では以下の点が挙げられています。
- 南京攻略時の人口統計:攻略時の南京の人口が20万人、1か月後には25万人に増加している記録があるとし、大量虐殺はあり得ないとしている。
- 被害者名簿の欠如:「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの1人分も存在していない」と主張している。
- これらの記述は2017年にアパホテルの客室に置かれていたことで中国内外で大きな批判を呼び、中国政府が旅行会社にアパホテルのボイコットを指示する事態に発展しました。アパグループは「言論の自由」を理由に書籍を撤去しない姿勢を貫きました。
この件については、『世界中で問題になった中国からの旅行客』 で詳しく書いていますので興味のある方はどうぞ。
現代への影響
- 中国の追悼日: 中国では12月13日を「南京大虐殺国家追悼日」としており、事件を記憶し、追悼する式典が行われています。
- ユネスコ記憶遺産: 南京事件に関する資料は、2015年にユネスコの「世界の記憶」に登録されました。
現代:国交正常化と摩擦
第二次世界大戦後、両国関係は断絶しましたが、冷戦時代を経て、1970年代に再び動き始めました。
冷戦時代の関係
第二次世界大戦後、中国は毛沢東の中華人民共和国。内戦に破れた蒋介石の中華民国は、台湾に渡りました。日本は最初、中華民国と国交を結んでいましたが、冷戦下で米中関係が改善すると、日本も中華人民共和国との関係を模索するようになりました。
中華人民共和国と中華民国の違い、知ってた?
中華人民共和国と中華民国は、それぞれ中国大陸を統治する共産党の一党独裁国家と、台湾を実効支配する民主主義国家であり、歴史的経緯と政治体制、国際的な位置づけにおいて根本的に異なります。
概要
| 特徴 | 中華人民共和国(PRC) | 中華民国(ROC) |
|---|---|---|
| 通称 | 中国、本土 | 台湾 |
| 首都 | 北京 | 台北 |
| 成立 | 1949年に国共内戦で勝利した中国共産党が建国 | 1912年に中国大陸で成立し、1949年に台湾へ移転 |
| 政治体制 | 中国共産党による一党独裁体制 | 複数政党制の民主主義 |
| 国際連合での地位 | 1971年に中華民国に代わって国連代表権を獲得し、常任理事国となる | 1971年に国連を脱退 |
| 経済 | 世界第2位の経済大国で、急速な成長を遂げている | 半導体産業を中心に発達した工業国 |
| 軍事 | 世界最大の軍隊を保有 | 独自の軍隊を保有 |
歴史的経緯
- 中華民国の成立: 1912年に孫文(そんぶん)らの革命家が清朝を打倒し、中国大陸に中華民国を樹立しました。
- 国共内戦: 1945年の第二次世界大戦後、中国国民党率いる中華民国政府と、中国共産党の間で内戦が再開しました。
- 中華人民共和国の建国: 1949年、共産党が内戦に勝利して中華人民共和国を建国。国民党は台湾に撤退し、中華民国政府を存続させました。
- 「二つの中国」: 以降、中華人民共和国と中華民国という「二つの中国」が対立する構図が続いています。
複雑な国際関係
- 「一つの中国」原則:
- 中華人民共和国: 「一つの中国」の原則を主張し、台湾は中国の一部であると見なしています。
- 中華民国: 自身こそが正統な中国政府であると主張していましたが、近年は台湾の現状を重視する傾向が強まっています。
- 国際社会の対応: 多くの国は中華人民共和国を唯一の合法政府として承認しており、中華民国(台湾)との関係は非公式なものに留めています。
国交正常化(1972年)
日中国交正常化は、1972年(昭和47年)9月29日に田中角栄首相と中国の周恩来首相が署名した日中共同声明によって実現されました。これにより、1945年の日本の敗戦以来、不正常な状態が続いていた日中両国の国交が回復しました。
国交正常化に至るまでの経緯
- 戦後の冷戦構造: 第二次世界大戦後、中国では国共内戦を経て1949年に中華人民共和国が建国され、日本は中華民国(台湾)と国交を結んでいました。東西冷戦下の国際情勢により、中華人民共和国との国交正常化交渉は長く中断していました。
- 米国の中国接近: 1971年、ヘンリー・キッシンジャー米国補佐官が極秘に訪中し、翌1972年にはニクソン米大統領が電撃的に中国を訪問しました。これら米国の動きは、対中政策で米国と歩調を合わせていた日本に「置き去りにされるのではないか」という衝撃を与えました。
- 田中角栄首相の決断: 1972年7月に首相に就任した田中角栄は、外交の遅れを取り戻すため、中国との国交正常化を急ぐことを決断しました。
- 交渉の実現: 1972年9月、田中首相は中国を訪問し、周恩来首相らと会談して国交正常化に合意しました。
日中共同声明の主要な内容
日中共同声明には、以下の内容が盛り込まれました。
- 戦争状態の終結: これまで戦争状態にあった日中間の不正常な関係が終結したことが確認されました。
- 中華人民共和国の承認: 日本は、中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」として承認し、中華民国(台湾)と断交しました。
- 台湾帰属問題: 日本は、台湾が中国の領土の不可分の一部であるとする中国側の立場を「十分理解し、尊重」すると表明しました。
- 戦争責任: 日本は、過去の戦争で中国国民に多大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省するとの態度を示しました。
- 賠償請求権の放棄: 中国は、日本に対する戦争賠償の請求権を放棄しました。
国交正常化がもたらした影響
- 日台関係の断絶: 日本が中華人民共和国を承認したことにより、中華民国(台湾)との国交は断絶しました。
- 経済交流の進展: 国交正常化後、日本から中国への政府開発援助(ODA)が開始され、日中間の経済交流が飛躍的に発展しました。
- 友好関係の進展と対立: 当初は友好的な関係が続きましたが、中国が経済力と軍事力を増強するにつれ、歴史認識や海洋進出などを巡る対立が目立つようになりました。
日本と台湾は今も断交状態にあるって知ってた?
日本と台湾の断交は解消されておらず、現在も正式な国交はありません。ただし、1972年の断交直後から民間レベルの実務的な関係を維持するため、窓口機関が相互に設置され、交流が活発に行われています。
断交後の交流維持
- 民間レベルの窓口機関設置: 国交断絶後も民間レベルでの交流を維持するため、日本側は「財団法人交流協会」を、台湾側は「亜東関係協会」をそれぞれ窓口機関として設置しました。
- これらの機関は、1992年にそれぞれ「日本台湾交流協会」と「台北駐日経済文化代表処」に改称され、現在も実質的な大使館の役割を果たしています。
- 経済・文化交流の進展: 民間交流は継続され、経済、文化、人的交流が活発に行われています。特に近年は、観光や経済協力において重要な関係を築いています。
台湾関係をめぐる近年の動向
近年、台湾の民主化や国際的な情勢の変化に伴い、日本と台湾の関係は新しい段階に入りつつあります。政治家や元総統の相互訪問も活発になり、安全保障面での協力についても議論されることがあります。しかし、あくまで「非公式」な関係であり、正式な国交は回復していません。
東日本大震災(2011年)の際、台湾からの義援金は、政府、民間、チャリティー番組などを通じて200億円以上に達し、国・地域別で世界最大でした。また、能登半島地震(2024年)の際にも台湾は、政府として6,000万円、これとは別に、民間からの寄付金も募集され、最終的に25億円以上が集まりました。
台湾地震(2024年4月)の際には、日本政府は、約100万ドル(約1億5,100万円)の緊急無償資金協力、また、台湾地震(2018年2月)では日本政府は、行方不明者の捜索を支援するため、地中の生命反応を探知する機材を持った専門家チームを派遣しています。
民間では、熊本県菊陽町に次世代半導体工場の建設、茨城県つくば市の産業技術総合研究所(産総研)内に、TSMCジャパン3DIC研究開発センターを設立し、3次元ICパッケージング技術など、次世代の半導体技術を日本の材料・装置メーカーと共同で開発するなど友好的な関係を築いています。
日中平和友好条約(1978年)
日中平和友好条約は、1978年8月12日に北京で日本と中華人民共和国との間で締結されました。1972年の日中共同声明によって国交が正常化された後、両国関係をさらに発展させることを目的として、6年越しで交渉が妥結しました。
条約の主要な内容
全5条からなり、主に以下の内容が盛り込まれました。
- 恒久的な平和友好関係の発展: 主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存の諸原則に基づき、両国間の平和友好関係を築くことを定めています。
- 覇権反対: アジア・太平洋地域または他のいかなる地域においても、両国がいずれも覇権を求めず、そのような覇権を確立しようとする他のいかなる国や国の集団にも反対することを表明しています。
- 経済・文化交流の促進: 善隣友好の精神に基づき、経済、文化、科学技術などの分野における関係の一層の発展と、両国民の交流を促進することを約束しています。
- 第三国との関係: この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではないと規定しています。
交渉の焦点と妥協
日中平和友好条約の交渉は、特に「覇権条項」と「第三国条項」をめぐって難航しました。
- 覇権条項: 中国は、当時中ソ対立が続いていたソ連の覇権主義を念頭に、「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」という文言を盛り込むことを強く主張しました。
- 日本の懸念: 一方、日本は中国の反ソ連包囲網に巻き込まれることを懸念し、この条項に慎重な姿勢を示しました。
- 妥協の成立: 最終的に「第三国との関係には影響しない」という条項(第三国条項)を盛り込むことで、覇権条項が特定の国に向けられたものではないという解釈の余地を残し、妥協が成立しました。
条約の意義と今日的な課題
- 日中関係の基盤: 日中共同声明とこの条約は、戦後の日中関係を築く上での重要な法的基盤となりました。
- 経済的貢献: 条約締結後の鄧小平(とうしょうへい)副首相の来日や日本の技術視察は、その後の中国の経済発展に大きな影響を与えたといわれています。
- 形骸化への懸念: 近年、両国間の歴史認識問題や領土問題、安全保障上の対立が深刻化する中で、条約で謳われた「平和友好関係」が十分に機能していないのではないかという懐疑的な見方も出ています。
- 対話の重要性: 相互不信が深まる中でも、条約の精神に立ち返り、対話を通じて問題を解決していくことの重要性が改めて指摘されています。
経済的相互依存
国交正常化後、日中間の経済関係は急速に発展しました。日本企業が中国に工場を建て、中国からの製品が日本に多く輸入されるようになりました。日本は中国の最大の貿易相手国の一つとなり、両国の経済は深く結びつくようになりました。
歴史認識と領土問題
経済関係が深まる一方で、歴史認識や尖閣諸島(中国名:釣魚島)の領土問題など、政治的な摩擦も増えていきました。
尖閣諸島の件に関しては、過去記事「中国が尖閣諸島を狙うホントの理由」「尖閣諸島はどうして守る?」でも触れています。
「政冷経熱」
政治関係は冷え込んでいるが、経済関係は熱いという意味で、「政冷経熱」という言葉が生まれました。これは、2000年代以降の日中関係を象徴する言葉となりました。
近年:複雑化する関係
2000年代以降、両国関係はさらに複雑さを増し、様々な問題が表面化しました。
小泉純一郎首相の靖国神社参拝
2001年(平成13年)から2006年(平成18年)にかけて、小泉純一郎首相が靖国神社に繰り返し参拝したことは、中国や韓国から強い反発を招きました。
この件に関しては、『なぜ靖国神社への参拝が非難されるのか』『終戦後もジャングルに潜んだ兵士たち』『アジア諸国は日本に感謝してくれている?』でも触れていますが、事後法(過去にさかのぼって、ある行動を『犯罪』と決めつけ、罰する法律)で規定された戦争犯罪で、そもそも罪ではないとする意見があり、また、サンフランシスコ平和条約発効後、巣鴨プリズンなどに収容されていた戦犯の釈放を求める国民運動が高まったことから、1953年8月3日の衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が共産党を含む全会一致で可決されています。
この決議は、戦犯を赦免し、名誉回復を図ることを政府に求めたものであり、靖国神社への合祀を後押しする土壌となりました。
2005年の中国における大規模反日デモ
2005年の中国における大規模反日デモは、主に日本の歴史教科書問題や国連安全保障理事会常任理事国入りへの反発が原因となり、2005年3月から4月にかけて中国各地で発生した反日活動です。一部のデモ隊が暴徒化し、日系企業や日本大使館に投石するなどの破壊行為も行われました。
デモの主な原因
- 日本の歴史教科書問題: 新しい歴史教科書が日本の歴史を美化していると見なされ、中国国内で反発が強まりました。
- 小泉純一郎首相の靖国神社参拝: 2001年から続く小泉首相の靖国神社参拝が、日中関係を冷え込ませる一因となっていました。
- 日本の国連安保理常任理事国入り: 中国のネットユーザーを中心に、日本の国連安保理常任理事国入りへの反対運動が展開されました。
- 構造的な要因: 中国の若者世代が、経済格差や社会矛盾への不満を反日感情として表出した側面も指摘されています。
デモの経緯
- 3月: 反日署名運動がインターネット上で始まりました。
- 4月:
- 2日: 四川省成都市で反日署名活動がデモに発展し、日系スーパーが被害を受けました。
- 9日: 北京で1万人規模のデモが発生し、デモ参加者は日本大使館や大使公邸に投石し、窓ガラスを破壊しました。
- 10日: 広州、深圳、上海など各地で数千人から1万人規模のデモが行われました。広州では日本総領事館が入るホテルがデモ隊に包囲され、上海では日本人留学生が暴行される事件が発生しました。
- 5月:
- 中国政府がデモの抑え込みに動き、5月上旬には事態は徐々に沈静化しました。
- 中国メディアも、デモの背景に一定の理解を示しつつも、暴力的な行動を戒め、理性的な対応を呼びかけました。
デモの結果
- 日系企業への被害: 日本料理店や日系スーパーマーケットなどが破壊され、一部で営業停止に追い込まれました。
- 日本政府の対応: 日本政府は、デモを容認したとして中国政府を強く非難しました。
- 中国政府の対応: 中国政府は、デモは法にのっとったものではなかったとしつつも、日本の歴史認識に原因があるとの見解を示しました。
- 関係修復の動き: 2006年の第一次安倍政権発足後、安倍首相(当時)が訪中し、「戦略的互恵関係」の構築で合意。これにより、一時的に日中関係は改善に向かいました。
その後の影響
2005年の反日デモは、中国社会におけるインターネットの普及がデモを拡大させた最初の事例の一つとして注目されました。また、このデモは、その後の2010年や2012年の大規模反日デモ(特に2012年の尖閣諸島国有化に対するデモ)と比較して、中国のメディア環境や国民感情の変化を考察する上で重要な出来事とされています。
安倍晋三首相の訪中と関係改善の試み(2006年)
2006年(平成18年)に首相に就任した安倍晋三氏は、中国を訪問し、日中関係の「戦略的互恵関係」構築を提唱しました。
尖閣諸島沖中国漁船衝突事件(2010年)
2010年に尖閣諸島沖で発生した中国漁船衝突事件は、当時の民主党政権の対応をめぐって日中関係を大きく揺るがし、その後の尖閣問題を深刻化させる契機となりました。
事件の経緯
- 衝突発生 (2010年9月7日): 尖閣諸島付近の日本領海内で違法操業をしていた中国漁船が、海上保安庁の巡視船「みずき」と「よなくに」の停船命令を無視し、意図的に体当たりしました。
- 船長の逮捕: 海上保安庁は漁船を追跡し、公務執行妨害の現行犯で中国人船長を逮捕、那覇地方検察庁石垣支部に送検しました。
- 中国の反発と圧力: 中国政府は、尖閣諸島は中国固有の領土であると主張し、日本の司法手続きを不法として船長の即時釈放を強く要求しました。
- 閣僚級以上の交流を停止し、国連総会での日中首脳会談を拒否。
- 日本へのレアアース(希土類)の輸出通関手続きを事実上停止。
- 中国国内で大規模な反日デモが発生し、日系企業などが被害を受けました。
- 中国国内で邦人4人を軍事管理区域で拘束。
- 船長の釈放: 日本国内で船長の起訴の是非が議論される中、那覇地検は9月24日、「日中関係を考慮」して船長を処分保留のまま釈放しました。当時の菅直人政権での仙谷由人(せんごく よしと)内閣官房長官は検察の判断を容認しました。
- 船長の起訴と公訴棄却: その後、検察審査会が船長を「起訴相当」と議決したため、指定弁護士が船長を強制起訴しました。しかし、那覇地裁は起訴状を送達できなかったことを理由に公訴を棄却しました。
映像流出事件
船長釈放後の11月、海上保安官が衝突時の映像を動画サイトに投稿しました。
- 背景: この映像流出は、政府が中国への配慮から映像を公開しなかったことへの不満が背景にあったとされています。
- 影響: 映像が一般に公開されたことで世論の批判が高まり、政府は情報管理のずさんさを問われることになりました。
自民党は24日、沖縄・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で、インターネット上に流出した約44分間のビデオ映像と同じ映像を報道陣に公開した。参院予算委員会が全会一致で映像提出要求を議決したのを受け、海上保安庁が22日に参院に提出。コピーが各会派に配布され、自民党が公開した。公開された映像はNo.1からNo.4まで全部で4つのファイルに分かれていて、合計で約44分。流出映像と同じものだったが、これを公開された形のままノーカットでお伝えします。しかし編集でカットされた未公開映像がまだあり、撮影された映像の全面公開が強く求められている。
事件が日中関係に与えた影響
- 関係の悪化: この事件は、それまで「政冷経熱」と言われた日中関係をさらに冷え込ませ、関係改善への道筋を困難にしました。
- 中国の海洋進出: この事件以降、中国公船が尖閣諸島周辺の接続水域や領海に侵入する頻度が著しく増加し、日本の領土・領海に対する中国の圧力が強まりました。
- 日本の安全保障課題: 尖閣諸島をめぐる安全保障上の問題が改めて浮き彫りになり、日本は海洋監視体制の強化を迫られました。
- 2012年の尖閣国有化: この事件での政府の対応への不満は、2012年の尖閣諸島国有化の動きにもつながりました。
尖閣諸島国有化(2012年)
2012年(平成24年)9月、日本政府は尖閣諸島の一部を国有化しました。これに対し、中国は強く反発し、大規模な反日デモや経済的な報復措置が行われました。
国有化までの経緯
東京都による購入計画
- きっかけ: 2012年4月、当時の東京都知事だった石原慎太郎氏が、米国訪問中に尖閣諸島を東京都が購入する計画を明らかにしました。
- 意図: 石原氏は、政府の「上陸させない、調査しない、開発しない」という管理方針を不満とし、購入後に施設の建設などを含めた実効支配を強める意向を示していました。
- 寄付金の募集: この計画を受けて、東京都は購入資金を賄うための寄付金を募り、多数の国民から多額の寄付が集まりました。
日本政府による国有化の決定
- 野田政権の判断: 中国との外交摩擦を抑制したい民主党の野田佳彦政権は、都が購入するよりも政府が買い取った方が、尖閣諸島の「平穏かつ安定的な維持管理」が可能と判断しました。
- 地権者との合意: 野田政権は、都の動きに先んじる形で、地権者と水面下で交渉を進め、国有化に合意しました。
- 閣議決定: 2012年9月10日に関係閣僚会合で国有化の方針を最終決定。翌9月11日、日本政府は魚釣島、北小島、南小島の3島を20億5000万円で地権者から購入し、所有権移転登記を完了しました。
国有化に対する中国の反応
強硬な反発
- 外交的な抗議: 中国政府は、日本の国有化は「領土の主権を侵害する違法な行為」であると強く非難しました。
- 大規模な反日デモ: 国有化が発表されると、中国各地で大規模な反日デモが発生しました。一部のデモ隊は暴徒化し、日系企業や商店、日本大使館に投石や破壊行為を行うなど、被害が広がりました。
- レアアースの輸出規制: 中国は日本へのレアアース輸出を事実上停止するなど、経済的圧力もかけました。
海洋進出の常態化
- 公船の領海侵入: 国有化直後の9月14日には、中国の海洋監視船(現在の海警局の公船)が初めて尖閣諸島周辺の日本領海に侵入。以降、中国公船による領海侵入が常態化し、頻度も増加しました。
- 中国海警局の強化: 国有化後、中国は複数の海洋法執行機関を統合して中国海警局を設立し、大型化・武装化を進めました。これにより、尖閣諸島周辺における中国の監視・示威活動はさらに強化されました。
国有化がもたらした影響
日中関係の冷却化
- 2010年の漁船衝突事件で悪化した日中関係は、国有化によってさらに冷却化し、首脳会談など対話の機会が激減しました。
- 中国では習近平体制が発足するタイミングと重なり、尖閣問題が政権の結束を固める材料として利用されたという見方もあります。
安全保障上の課題
- 中国による頻繁な領海侵入は、海上保安庁の警備負担を増大させ、日本の安全保障上の深刻な課題となりました。
- 日本は、南西諸島の防衛体制を強化するなどの対応を迫られました。
歴史認識問題
- 中国は国有化を、日本が日清戦争で尖閣諸島を「窃取」したという歴史認識に基づき、現状変更の試みと強く非難しました。
このように、2012年の尖閣諸島国有化は、日中関係に長期的な影響を与える重要な出来事でした。日本は安定管理のためと国有化に踏み切りましたが、中国側の想定以上の反発を招き、両国間の緊張が恒常化する結果となりました。
「戦狼外交」と強硬姿勢
近年、中国は自国の利益を強く主張する「戦狼外交」と呼ばれる強硬な外交姿勢を強めています。これに対し、日本だけでなく、欧米諸国も警戒を強めています。
「戦狼外交」(せんろうがいこう)とは、2010年代後半から見られる、中国外交官による強硬で攻撃的な外交姿勢を指す言葉です。2017年の中国映画『ウルフ・オブ・ウォー(戦狼)』にちなんで名付けられました。
「戦狼外交」の背景
- 鄧小平時代の終焉: 鄧小平は「韜光養晦(とうこうようかい)」(才能を隠して時が来るのを待つ)という穏健な外交姿勢を提唱しました。しかし、習近平体制下で、その路線は大きく転換しました。
- ナショナリズムの高揚: 習近平政権は、中国国内のナショナリズムを積極的に鼓舞しています。外交官たちは、国際社会からの批判に対して、中国人民の利益を強く擁護する「狼の戦士」として行動するよう促されています。
- 経済力・軍事力の増強: 経済力と軍事力を増大させた中国は、国際社会において、より積極的に自国の主張を押し通す自信を深めています。
- 党の指導強化: 外交部(外務省)に対する党の政治的介入が強まり、外交官たちは習近平や党の意向に過剰に反応する傾向が見られます。
「戦狼外交」の特徴と具体例
- 激しい言葉の応酬: 外交官が、SNSや記者会見で、他国を激しい言葉で批判したり、反論したりします。
- 新型コロナウイルス起源: 趙立堅・元外交部副報道局長は、新型コロナウイルスは米軍が武漢に持ち込んだものかもしれない、とSNSで発言しました。
- 香港の人権問題: 欧米諸国から香港の民主化弾圧について批判されると、「米国は人種差別や警察の暴力、選挙干渉など、自国の問題に取り組むべきだ」と反論しました。
- 福島第一原発の処理水: 中国の外交官は、処理水の海洋放出をめぐって、日本の浮世絵を揶揄するようなフェイク画像を拡散しました。
- 経済的圧力: 自国の意向に沿わない国に対しては、経済的な圧力をかけることがあります。
- オーストラリアへの報復: オーストラリアが新型コロナウイルスの起源調査を求めた際、中国は同国の産品に高い関税を課すなど報復措置をとりました。
- 軍事的威嚇: 台湾周辺での大規模な軍事演習など、軍事的な威嚇も辞しません。
国際社会からの評価と反発
「戦狼外交」は国際社会からの反発を招き、中国の国際的なイメージを損ねる結果となっています。
- 欧米の批判: 民主主義に対する挑戦と受け止められ、欧米の多くの国が、中国の強硬姿勢に批判的な姿勢を示しています。
- 孤立化: 駐日米大使のエマニュエル氏は、戦狼外交は国際社会での「孤立」を招いた「大失敗」だったと指摘しました。
- 外交姿勢の修正: 過度な強硬姿勢が裏目に出ていることを受け、中国政府内では外交姿勢を修正しようとする動きも見られます。
中国の「国家安全」に関わる日本人拘束
2015年(平成27年)以降、中国当局は「国家安全」に関わったとして、複数の日本人を拘束しています。これは、日本企業や日本人駐在員にとって大きなリスクとなっています。 出典:外務省海外安全ホームページ「中国に対する渡航情報」(https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfodetail.asp?id=016#ad-image-0)
中国が「国家の安全」を理由に日本人を拘束する事例は、2014年の反スパイ法(正式名称「中華人民共和国反間諜法」)施行以降、急増しています。これまでに少なくとも17人の日本人が拘束され、その中には長期にわたる実刑判決を受けた人もいます。
拘束の背景と特徴
- 反スパイ法の施行と強化: 2014年の反スパイ法施行に加え、2023年7月には改正法が施行され、取り締まりが強化されました。これにより、スパイ行為の定義が「国家機密」の提供だけでなく、「国家の安全と利益」に関わる情報にまで拡大されました。
- 「国家の安全」の定義の曖昧さ: 反スパイ法で規定される「国家の安全と利益」の具体的な基準は明示されていません。このため、中国当局の裁量によって広範な行為がスパイ行為とみなされ、恣意的に運用される可能性が高いと指摘されています。
- 非公開の司法手続き: スパイ関連の事案では、「国家機密」を理由に容疑内容や裁判などの司法手続きが非公開にされる場合が多く、具体的な拘束理由が不明なまま、裁判が進められることがあります。
- 監視居住(RSDL): 拘束された外国人は、弁護士との接見も禁じられる「指定場所監視居住(RSDL)」という非人道的な拘束システムに収容されることもあります。
- 多様な拘束対象: 拘束された日本人は、駐在員、研究者、経営者、さらには日本の諜報機関と関係があったとされる人物まで多岐にわたります。中には日中友好交流団体のメンバーも含まれていました。
具体的な日本人拘束事例
- アステラス製薬の日本人社員: 2023年3月、中国に駐在していた大手製薬会社アステラス製薬の社員が反スパイ法違反の疑いで拘束されました。その後、懲役刑が言い渡されています。
- 日中交流団体の元メンバー: 2017年、日中交流団体の元メンバーだった日本人男性が拘束され、スパイ罪で懲役6年の実刑判決を受けました。この男性は拘束期間中、RSDL下に置かれていました。
- その他: この他にも、地質調査や温泉掘削などの調査活動が「国家の安全に危害を及ぼす」とみなされ、拘束される事例も発生しています。
日本企業と個人のリスク
- 投資意欲の低下: 反スパイ法の曖昧な運用により、日系企業は駐在員の安全確保に不安を強めており、対中投資の意欲低下につながっています。
- リスク回避の動き: 企業は、事業活動で収集する市場調査や顧客データが「スパイ行為」と解釈されるリスクに警戒し、従業員への注意喚起や行動規範の見直しを進めています。
- 日本政府の対応: 日本政府は、邦人拘束のたびに中国に抗議し、早期解放を求めていますが、事案の詳細は「国家機密」を理由に明らかにされないことが多いため、対応が困難な状況が続いています。
中国の「国家安全」を巡る日本人拘束は、中国に進出する企業や個人にとって深刻なリスクとなっており、今後の日中関係においても重要な課題として認識されています。
歴史認識問題の継続
歴史認識に関する問題は依然として存在します。南京事件や慰安婦問題などについて、日中両国の間で認識の溝が埋まらない状況が続いています。
福島第一原発の処理水海洋放出問題
2023年(令和5年)8月、東京電力福島第一原発の処理水が海洋放出されることになりました。これに対し、中国は「汚染水」だと主張し、日本からの水産物の輸入を全面的に停止しました。
また、中国報道官が、Xで葛飾北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を加工した画像と「葛飾北斎が生きていたら日本の核の水にとても憂慮していただろう」のメッセージを投稿して物議を醸しました。
戦略的互恵関係と2024年の外交青書
日本政府は、日中関係を「戦略的互恵関係」と位置づけ、対話と協力を進めていく姿勢を示しています。2024年(令和6年)の外交青書(日本の外務省が毎年発行している、日本の外交活動と国際情勢の記録をまとめた報告書。国民への情報提供、外交政策の記録、研究基礎資料を目的として毎年発行されています。 )では、中国を「国際社会の課題への対応に責任ある役割を果たすよう促す」として、連携も視野に入れた上で、懸念事項については「主張すべきは主張し、責任ある行動を強く求める」と明記しています。
2024年の外交青書で「戦略的互恵関係」という言葉が5年ぶりに明記されたことは、対話の重要性を強調しつつも、中国に対する警戒を続けるという、日本政府の複雑な対中外交姿勢を反映したものです。
「戦略的互恵関係」とは
2006年、第一次安倍政権が日中関係改善のために打ち出した外交方針です。
- 考え方: 歴史認識やイデオロギーなどの対立があっても、互いの共通の利益になる分野(経済協力、環境問題、北朝鮮問題など)で協力することで関係を強化していくという考え方です。
- 目的: 日中両国が「協力の推進」と「課題への対処」を並行して行うことで、安定した関係を築くことを目指しています。
2024年の外交青書における「戦略的互恵関係」
2024年の外交青書は、2023年11月の日中首脳会談で両国が「戦略的互恵関係」を再確認したことを踏まえて、この表現を5年ぶりに復活させました。
記述のポイント
- 対話の重要性: 日中関係には「数多くの課題や懸案が存在する」としつつも、対話の継続を通じて問題を解決していく姿勢を示しています。
- 両面的なアプローチ: 共通の利益を拡大するための「協力」と、懸念事項に対しては「主張すべきは主張」するという両面的なアプローチを打ち出しています。
- 中国の軍事動向: 中国の軍事動向を、日本の安全保障にとって「これまでにない最大の戦略的な挑戦」と位置づけ、警戒を強める姿勢も同時に示しています。
- 懸案事項への言及:
- 中国による一方的な現状変更の試み(東シナ海・南シナ海)や、台湾海峡の平和と安定の重要性について言及。
- 原発処理水放出を受けた日本産水産物の禁輸措置の即時撤廃や、日本の排他的経済水域(EEZ)に設置されたブイの即時撤去を要求していることを記しています。
復活の背景と狙い
- 関係改善の糸口: 対話を通じた関係改善の兆しを探るため、関係の基盤となる「戦略的互恵関係」という表現を復活させました。
- 安定化の必要性: 経済や軍事面で存在感が増す中国との安定的な関係を維持し、不測の事態を避ける狙いがあります。
- バランスの模索: 中国の動向を「最大の戦略的な挑戦」と厳しく評価しつつ、対話のチャンネルは閉ざさないという、バランスの取れた外交姿勢を模索しています。
課題と展望
- 中国の反応: 中国外務省は、日本の対話姿勢を歓迎しつつも、日本の青書が「中国の脅威」を誇張しているとして反発を示しました。
- 二重のメッセージ: 「戦略的互恵関係」を再確認しつつ、中国への厳しい言及も続けるという日本の姿勢は、中国に二重のメッセージと受け取られる可能性もあります。
- 実効性: 今後、経済的な依存関係と安全保障上の対立という構造の中で、この「戦略的互恵関係」をいかに実効性のあるものにしていくかが、日本外交の課題となります。
企業は中国との関係をどう考えるべきか
近年、地政学的なリスクや経済的な変化から、日本企業は中国からのサプライチェーン(部品の調達から製造、販売までの一連の流れ)を見直すべきかという議論が活発に行われています。
サプライチェーンの脆弱性
中国に生産拠点が集中していると、地政学的な問題(例えば、軍事的な緊張や紛争)や自然災害、パンデミックなどが起きた際、部品が届かなくなったり、製品が作れなくなったりするリスクがあります。
人権問題
中国での人権問題、特に新疆ウイグル自治区での人権侵害は国際社会から批判を受けています。これに関連し、中国でビジネスを行う日本企業も倫理的な責任を問われる可能性があります。
中国経済の減速
かつて「世界の工場」と呼ばれた中国経済も、近年は不動産不況や若者の失業率の高さなど、様々な課題を抱えています。これにより、日本企業の中国ビジネスも成長が鈍化する可能性があります。
撤退のコストと機会損失
一方で、中国市場から完全に撤退することは、これまで築き上げてきたビジネス基盤や人材、顧客を失うことにつながります。また、巨大な市場である中国から得られる収益や技術革新の機会を逃すことになります。
「チャイナ・プラスワン」
そこで、「チャイナ・プラスワン」という考え方が注目されています。これは、中国だけでなく、東南アジアのベトナムやタイ、インドなど、他の国にも生産拠点を分散させることで、リスクを減らすという戦略です。これにより、サプライチェーンの柔軟性を高めながら、中国市場でのビジネスも継続できます。
各政党の政策
各党の考え方や主張は最新の各政党ホームページの政策や公約、党首の発言、ニュース記事などを参考にしています。各政党の考え方を見て、自分の考え方に合う政党はどこかを選んでみましょう。
自由民主党(自民党:保守、中道右派、左傾傾向)
自由民主党は、中国を重要な隣国としつつも、安全保障上の脅威として警戒しています。経済面では、中国との協力と対話の重要性を認識し、経済安全保障を確保する姿勢です。
立憲民主党(立憲民主党:革新、中道左派、リベラル)
立憲民主党は、中国との建設的な対話を重視し、経済、環境、文化などの分野で協力を進めることを掲げています。同時に、人権問題や東シナ海、南シナ海での現状変更の試みには、国際社会と連携して明確に反対の意思を示すとしています。
日本維新の会(日本維新の会:保守、右派、リベラル)
日本維新の会は、中国を「脅威」と見なす姿勢を明確にしています。安全保障面では、防衛力の強化を訴え、台湾有事などのリスクに備えるべきだと主張しています。経済面では、サプライチェーンの脱中国化を進めることを掲げています。
公明党(公明党:中道、保守)
公明党は、日中関係を「平和と友好」の視点から捉え、対話を重視しています。与党として、中国との間で政治的安定を保ちつつ、経済や文化交流を促進し、国民間の相互理解を深めることを目指しています。
国民民主党(国民民主党:中道、保守、リベラル)
国民民主党は、日中関係の安定を追求しつつ、経済安全保障の重要性を強調しています。中国が国際的なルールに従うよう働きかける一方で、民間企業や国民の交流を維持・発展させることを目指しています。
日本共産党(日本共産党:革新、左派)
日本共産党は、中国共産党の覇権主義的な行動や人権問題に厳しく反対しています。一方で、日中両国民の友好関係を重視し、軍事的な対立ではなく、外交的な解決を求める姿勢です。
参政党(参政党:保守、右派)
参政党は、中国の「覇権主義」や「全体主義」に強く反対し、日本の安全保障を最優先にすべきだと主張しています。経済面でも、中国への過度な依存から脱却し、国内の自給自足を高めることを掲げています。
れいわ新選組(れいわ新選組:革新、左派)
れいわ新選組は、戦争を回避するため、中国との対話を継続することを重視しています。軍事的な解決策に反対し、国際法や平和憲法に基づいた外交努力を通じて、東アジアの平和を構築すべきだと主張しています。
日本保守党(日本保守党:保守、右派)
日本保守党は、中国の軍事的・経済的な膨張を日本の国益に対する脅威と見なしています。安全保障面では、防衛力の強化と日米同盟の重要性を訴え、中国の圧力に屈しない外交を掲げています。
まとめ:日本企業は中国から撤退すべきか、そして私たちはどうすべきか
中国との関係は、歴史を振り返っても、そして現在の状況を見ても、非常に複雑であることがわかります。経済的なつながりは深く、私たちの生活に欠かせないものとなっていますが、安全保障や人権、歴史認識といった政治的な問題も山積しています。
日本企業は中国から撤退すべきかという問いに対する答えは一つではありません。企業にとっての利益やリスク、そして私たち国民がどのような国と関係を築いていきたいかという価値観によって、答えは変わってきます。
私たちは、この複雑な現実を理解し、その上で自分なりの考えを持つことが大切です。そのためには、様々な情報源から正しい知識を得ること、そして自分自身の目で現実を確かめることが重要です。
あなたは、今回のテーマについて、どのような日中関係を望みますか?そして、そのためにどのような選択をしますか?
おまけ:中国と日本の交流歴史
| 中国の王朝 | 主要な民族 | 日本の時代・天皇・将軍 | 備考 |
| 紀元前2070年頃-紀元前1600年頃 夏(か) | 漢民族(華夏族) | 縄文時代 | 日本はまだ国家が形成される前の時代。 |
| 紀元前1600年頃-紀元前1046年頃 殷(いん) | 漢民族 | 縄文時代 | |
| 紀元前1046年頃-紀元前256年 周(しゅう) | 漢民族 | 縄文時代~弥生時代 | 中国の歴史書『漢書』に日本のことが記載されたのは、漢の時代。 |
| 紀元前221年-紀元前206年 秦(しん) | 漢民族 | 弥生時代 | |
| 紀元前206年-220年 漢(かん) | 漢民族 | 弥生時代~古墳時代 | 倭の奴国王が後漢に使いを送り、金印を授かる(57年)。邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送る(239年)。 |
| 220年-280年 三国(さんごく) | 漢民族 | 古墳時代 | |
| 265年-420年 晋(しん) | 漢民族 | 古墳時代 | |
| 420年-589年 南北朝(なんぼくちょう) | 漢民族、五胡(鮮卑など) | 古墳時代 | |
| 581年-618年 隋(ずい) | 漢民族 | 飛鳥時代 (天皇:推古天皇) | 聖徳太子(厩戸皇子)が小野妹子を遣隋使として派遣(607年)。 |
| 618年-907年 唐(とう) | 漢民族 | 飛鳥時代~平安時代 (天皇:孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、聖武天皇、桓武天皇など) | 遣唐使が派遣され、律令制度や仏教、文化を学ぶ。 |
| 907年-960年 五代十国(ごだいじっこく) | 漢民族、契丹(きったん)など | 平安時代 | 遣唐使が廃止された後、国風文化が花開く。 |
| 960年-1279年 宋(そう) | 漢民族 | 平安時代~鎌倉時代 (天皇:後白河法皇) (将軍:源頼朝) | 平清盛が日宋貿易を積極的に行う。 |
| 1271年-1368年<br>元(げん) | モンゴル民族 | 鎌倉時代 (天皇:後醍醐天皇など) (将軍:北条氏が執権) | 元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)が起こる。 |
| 1368年-1644年 明(みん) | 漢民族 | 室町時代~江戸時代 (天皇:後醍醐天皇など) (将軍:足利義満、徳川家康など) | 足利義満が日明貿易(勘合貿易)を始める。 |
| 1644年-1912年 清(しん) | 満州民族 | 江戸時代~明治時代 (天皇:孝明天皇、明治天皇) (将軍:徳川家光~徳川慶喜) | 江戸時代には長崎で貿易を行う。明治時代には日清戦争(1894年)を経験する。 |
| 1912年-現在 中華民国・中華人民共和国 | 漢民族 | 明治時代~現代 (天皇:明治天皇~徳仁天皇) | 現代では、国際社会における重要な隣国として関係を築いている。 |


コメント