そもそも日本はなぜアジアに進出したの?
その前に、欧米が進めていたアジアの植民地政策を知ろう。
19世紀から20世紀にかけて、欧米列強は、経済的な利益と政治的な影響力の拡大を目的としてアジア各国を植民地化していっていました。
主な国と支配地域

イギリス:イギリスはアジアで最も広大な植民地を支配しました。インドは「インド帝国」として直接統治され、シンガポールやマレーシアは重要な貿易拠点として植民地となりました。さらに、ビルマ(現在のミャンマー)や香港も支配下に置きました。
フランス:フランスは主に東南アジアに植民地を築きました。ベトナム、ラオス、カンボジアを含む地域を「フランス領インドシナ」として統治し、資源の獲得と軍事拠点の確保を進めました。
スペイン・ポルトガル:大航海時代からアジアに進出し、植民地を築きました。スペインはフィリピンを300年以上にわたって支配し、ポルトガルはマカオや東ティモールを拠点としました。
オランダ:オランダはインドネシアを「オランダ領東インド」として支配しました。香辛料やゴム、石油などの豊富な天然資源を独占し、経済的利益を追求しました。
アメリカ:米西戦争(1898年)でスペインに勝利した後、フィリピンを植民地としました。アメリカはフィリピンを独立させることを約束しましたが、実質的な支配は第二次世界大戦で日本に占領されるまで続きました。
欧米は、植民地でどんなことをやっていたか
- 資源の収奪: 欧米列強は、アジアやアフリカの植民地から、自国で不足している天然資源(ゴム、石油、鉱物など)を安く手に入れ、本国の産業を発展させました。これは収奪的(しゅうだつ:一方的に奪い取る。相手の立場や利益を全く考えず、ひたすら自分たちが利益を得ることにこだわっていました)な経済活動であり、植民地の人々はひたすら奴隷のように働かされていました。
- 市場の確保: 植民地は、本国で作られた工業製品を売るための市場としても利用されました。これにより、本国の経済はさらに強くなりました。
- 政治的な支配: 植民地には、現地の人々を統治するための総督府などが置かれ、現地の文化や社会を無視した形で、本国の法律や制度が強制されました。現地の人々は参政権を持たず、差別的な扱いを受けることが一般的でした。中には罪人のように手枷や足枷をつけて働かされる人もいました。
- 文化の強制: 宗主国(そうしゅこく:植民地を支配する国)の言語や宗教、教育が植民地の人々に強制されました。これにより、現地の文化や伝統が失われることもありました。
日本も国力が強くなければ植民地とされる運命でした
日本は、明治時代から昭和時代にかけて、国の力を強くしようと頑張っていました。当時のアジアは、欧米に植民地にされているところがほとんどで、日本も対象外ではありませんでした。
そんな中で当時の日本が考えたのは、大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)「アジアから欧米の植民地支配を追い出し、日本を中心とした、みんなで豊かに栄えるアジアの新しい秩序をつくる」ということでした。
アジア各国に軍隊を派遣したり、軍事力や経済力を背景に、いくつかの国や地域を治めることになりました。
日本が治めていた国々
日本が治めていた主な地域は、大きく分けて二つに分類できます。
一つは、長期間にわたって日本の領土になったり、日本が深く関わったりした場所です。これには、台湾や朝鮮半島、そして満州や南洋群島などが含まれます。
もう一つは、第二次世界大戦の間に、一時的に日本軍が戦って手に入れた場所です。ビルマ(現在のミャンマー)やフィリピンなどがこれにあたります。
なぜ日本はこれらの地域を治めようとしたのでしょうか。それは、資源や安全を確保するためでした。工業を発展させるためには、石油や鉄などの資源が必要でしたが、当時の日本には足りませんでした。また、大きな国々に囲まれていた日本は、自分の国を守るために、周りの地域にも力を持つ必要があると考えたのです。
治められた国々の当時の反応と、その後の変化
日本に治められた国や地域の人々は、それぞれの場所でさまざまな反応を示しました。ここでは、代表的な国や地域の当時の様子を見ていきましょう。
朝鮮半島(反日)
日本は、日露戦争に勝った後、明治43年(1910年)に朝鮮を日本の国の一部にしました。日本は、学校や鉄道、病院などを作り、社会の仕組みを整えました。
戦後、朝鮮半島は南北に分かれて、それぞれ韓国と北朝鮮という別の国になりました。このあたりのことはまたさまざまなテーマで改めて深堀をしていきます。
台湾(親日)
明治27年(1894年)~明治28年(1895年)の日清戦争で日本が清に勝利した結果、明治28年(1895年)に結ばれた下関条約によって、台湾は清から日本に譲り渡され、日本の統治下に入りました。
清王朝は、台湾を「化外の地(かいがいのち)」、つまり文明が及ばない辺境の地と見なしていました。限られた行政組織が置かれ、漢民族の入植は奨励されましたが、インフラ整備や産業開発といった近代的開発は行われませんでした。
一方、日本は台湾を本格的な植民地として、自国の経済と軍事のために鉄道や港湾、上下水道などを大規模に建設し、農業技術の近代化を進めました。日本がインフラを整備し、農業や産業を新しくしたことで、台湾の経済は発展したと言われています。台湾は、第二次世界大戦が終わった後、中国に引き渡されました。
満州(反日)

満州(現在の中国東北部)は、日本が治めるまで、いくつかの国の影響が入り混じっていました。主に清王朝(中国)の領土でしたが、明治時代に入るとロシアの勢力が強まり、その後日本とロシアがこの地域をめぐって争うことになりました。
- 清王朝(中国)の領土 元々は、清王朝を興した満州民族の故郷でした。清王朝(満州族)が中国全土を支配するようになると、満州は単なる一地方として扱われるようになります。
- ロシアの影響拡大 19世紀末になると、ロシアが鉄道を建設するために満州に進出し、軍事的な影響力を強めました。これにより、この地域の支配権をめぐってロシアと日本の間で緊張が高まりました。
- 日露戦争(明治37年(1904年)〜明治38年(1905年)) ロシアの満州への進出を脅威と感じた日本は、ロシアと戦争を始めました。日本が勝利したことで、満州におけるロシアの権益は日本に引き継がれ、日本の影響力が強まることになりました。
- その後、現地の日本の軍隊である関東軍が力を強め、昭和6年(1931年)に満州事変を起こし、翌年に日本の実質的な支配下にある満州国を建国しました。
この結果、満州は名目上は中国の領土であり続けましたが、実質的には日本とロシアが力を競い合う場所となり、最終的に日本の支配下に入ったのです。
満州は、日露戦争の後、日本の影響力が強くなった場所です。日本は昭和7年(1932年)に「満州国」という国を作りました。多くの日本人が移り住んで、開拓や工場作りが進められましたが、満州国は国際社会からは、日本が裏で操る国だと見られていました。
満州事変は、国際連盟(こくさいれんめい)から日本の侵略行為と非難されました。しかし、日本は国際連盟の勧告(かんこく)を無視し、昭和8年(1933年)に国際連盟を脱退しました。この事件は、日本が国際的な孤立を深めていくきっかけとなりました。
第二次世界大戦が終わると、満州国はなくなり、中国(漢民族)の一部になりました。
南洋群島(親日)
第一次世界大戦の後、日本は国際連盟という組織から、ミクロネシアにある島々を治めることを任されました。これを「委任統治(いにんとうち)」といいます。南洋群島は、現在のパラオや北マリアナ諸島、ミクロネシア連邦にあたる島々です。
日本はこれらの島に学校や病院、道路を作り、人々の生活を良くしようと努めました。日本語を学ぶ人も多く、日本文化が人々の生活に溶け込んでいきました。戦後、これらの島々はアメリカに引き渡され、その後、それぞれが独立しました。パラオは平成6年(1994年)に独立し、日本が最後に治めるのをやめた地域の一つです。
ビルマ(現在のミャンマー)(親日)
第二次世界大戦中、日本軍は、後にビルマ建国の父といわれたアウン・サンからの依頼でビルマ人に戦闘を教え、彼らとともにイギリスの植民地だったビルマ(現在のミャンマー)を攻めました。日本軍は「アジアを欧米の支配から解放する」(大東亜共栄圏)を掲げて、ビルマの独立を助けました。これによって、ビルマは一時的に独立を果たしました。
戦後、ビルマは再びイギリスの支配下に戻りましたが、昭和23年(1948年)に独立しました。
フィリピン(親日)
フィリピンは当時、アメリカに治められていました。日本軍は昭和17年(1942年)にフィリピンを占領しました。日本は「アジア人同士で協力しよう」と呼びかけましたが、実際には多くの人々が厳しい軍隊の支配を受け、つらい生活を強いられました。
戦後、フィリピンは独立しました。
最近議論されている、歴史の考え方の違い
過去の日本の統治について、今でもさまざまな話し合いが続いています。
一つの大きな論点は、「植民地支配」をどう考えるかという点です。欧米が行った一方的な搾取ではなく、道路や水道などのインフラ整備や学校の建設や教育などを行ったことは事実で、朝鮮などは、人口は1300万人が2600万人に増え、平均寿命も24歳が56歳に延び、識字率も4%が61%上がり、白丁(ペクチョン)と呼ばれて差別された人々の身分解放(奴隷解放)をしています。
これらを近代化や国としての独立を進めるための良いことだったと考える人と、それは日本の利益のためであり、人々の自由や権利を無視した差別的な支配だったと批判する人もいます。
もう一つは、歴史認識(れきしにんしき:歴史のできごとをどう捉えるかという考え方)の違いです。特に韓国では、日本の支配を「民族が苦しんだ悲しい歴史」として学校で教えて反日本の思想を植え付けています。このような歴史に対する考え方の違いが、国と国の関係を難しくしている原因の一つです。
各政党の政策
今回の「日本の統治」というテーマで各政党の考え方を見ていきましょう。そして自分の考え方に合う政党はどこかを選んでみましょう。
- 自由民主党(自民党:保守、中道右派、左傾傾向)
- 過去の日本の侵略と植民地支配を反省し、おわびを表明した政府の公式見解を守りつつ、日本の名誉を守る姿勢も大切にしています。話し合いや外交を重視し、近隣諸国との関係を良くしようと考えています。
- 立憲民主党(革新、中道左派、リベラル)
- 過去の支配や侵略をはっきりと反省し、アジアの国々との信頼関係を築くべきだと主張しています。つらい経験をした人々に対し、謝罪と責任を果たす必要があると考えています。
- 日本維新の会(保守、右派、リベラル)
- 歴史認識については、政府の考え方に沿いつつも、日本の誇りを傷つけるような「自虐史観(じぎゃくしかん:自分の国を悪く言い過ぎる考え方)」に陥らないようにすべきだと主張しています。
- 公明党(中道、保守)
- 日本と中国、韓国の関係を安定させることを大切にしています。過去の歴史について、政府の考え方を引き継ぎながら、話し合いを通じて友好関係を深めることが重要だと考えています。
- 国民民主党(中道、保守、リベラル)
- 歴史認識については、政府の考えを尊重しつつ、感情的な対立を避けて未来へ向かう話し合いを進めるべきだと主張しています。
- 日本共産党(革新、左派)
- 過去の日本の侵略と植民地支配を「侵略」とはっきりと認め、その責任を果たすべきだと強く主張しています。歴史の本当の姿を知ることで、平和な社会を作ることが大切だと考えています。
- 参政党(保守、右派)
- 「自虐史観」を否定し、日本の誇りをもう一度取り戻すことを主張しています。日本の名誉を傷つけるような考えには反対し、客観的な目で歴史を学ぶべきだと考えています。
- れいわ新選組(革新、左派)
- 過去の日本の支配や戦争について、加害者としての責任をはっきりと認め、被害者への謝罪と補償を求めるべきだと主張しています。
- 日本保守党(保守、右派)
- 過去の支配や戦争について、「自虐史観」をなくし、日本の名誉を守るべきだと主張しています。健全な愛国心と誇りを持つための歴史の教育を大切にしています。
統治の歴史から見えてくる、国と国との関係
日本が過去に治めていた国の中には、今、とても仲が良い国(親日国)もあれば、歴史の考え方をめぐって意見が対立し、関係が難しい国(反日国)もあります。
その違いはどこにあるのでしょうか。
たとえば、台湾やパラオは一般的に親日国として知られています。 これは、日本の統治時代に、インフラを整備するなど、良い面があったと評価されているからです。また、東日本大震災(平成23年(2011年))の時に、台湾から多額の寄付が送られたように、困ったときにお互い助け合う関係が深まったことも、親しい気持ちにつながっています。特にパラオでは、ペリリュー島の戦いという激しい戦いで、日本軍が住民を守ったという話が今でも語り継がれています。
一方で、韓国は歴史の考え方をめぐって、日本と意見がまったく違います。韓国では、日本の支配時代を「民族が苦しんだ歴史」として、次の世代に強く伝えています。
ミャンマーやフィリピンも、過去に日本軍に占領されて、一時は反発しあう時もありましたが、両国とも今は親日的な国として知られています。戦後、日本が経済的な援助や協力を通じて、両国の発展を助けてきたことも、その背景にあります。
このように、国と国の関係は、過去の歴史だけでなく、その後の政治的な動きや、国民一人ひとりのふれあいによって大きく変わります。
歴史を知り、それぞれの国の立場や気持ちを理解しようとすることが、これからの世界で仲良くしていくためにとても大切です。
次回は、戦後に独立をした国について、日本が統治していたところを中心としてもう少し掘り下げていきます。
おまけ:ビルマの国軍は日本が作った?
日本の支援を受けて結成された独立運動組織で、ビルマ独立義勇軍という軍事組織があります。日本軍がイギリス植民地政府を打倒するために、ビルマの青年たちに軍事訓練を行い、彼らを独立運動の主体として育てたものです。
この組織は現在、独立した組織としては存在していません。ただ、その後の歴史の中で、形を変えながら現在のミャンマー国軍(タッマードー)の母体となっています。
日本とビルマ独立義勇軍
第二次世界大戦中、日本はイギリスなど欧米諸国の植民地支配からアジアを解放するという「大東亜共栄圏」の構想を掲げていました。この構想に基づき、日本軍はイギリスの植民地だったビルマ(現在のミャンマー)に侵攻しました。
当時、ビルマには「タキン党」という独立運動組織がありました。この組織のリーダーで「ビルマ独立の父」といわれたアウン・サンらは、日本の支援を得ることで独立を達成できると考え、密かに日本に渡航しました。
日本軍は、アウン・サンたち「タキン党」の青年30人(通称「三十人の同志」)に、中国南部にある海南島で軍事訓練を施しました。昭和16年(1941年)、彼らはビルマ独立義勇軍を結成し、日本軍と共にビルマへ進軍しました。この軍は当初、日本軍の侵攻を支援する協力者として機能し、昭和17年(1942年)には首都ラングーンを占領しました。
この後、日本はビルマを一時的に独立させ、バー・モウを首班とするビルマ国が成立しました。しかし、日本の統治は厳しい軍政であり、当初の独立への期待とは異なっていたことから、次第に日本への反発が高まっていきました。
アウン・サンは、次第に日本への不信感を強め、昭和20年(1945年)には日本の支配に抵抗するため、日本軍に反旗を翻し、イギリス軍と共闘しました。
現在の関係
このように、ビルマ独立義勇軍は、日本の支援によって作られましたが、その後日本と対立しました。しかし、戦後、日本はビルマに多額の賠償金や経済援助を行い、復興を支援しました。これらの背景から、現在、ミャンマーは日本に対して比較的親日的な国とされています。
ちなみにアウン・サンの娘は、アウン・サン・スー・チーです。彼女は、ミャンマーの民主化運動を率いたことで世界的に知られています。1991年にノーベル平和賞を受賞しましたが、2021年の軍事クーデター以降は再び拘束されています。
市川崑 監督 中井貴一、石坂浩二など。
日本の兵士である水島上等兵(中井貴一)は、終戦後も降伏しない部隊を説得しに向かいますが、失敗し、部隊は全滅し水島も負傷して現地人の手当を受けます。彼は多くの戦死者の遺骨を見て、日本に帰国することをやめ、彼らの魂を弔うためにビルマ僧として生きることを決意します。
おまけその2 パラオ・ペリリュー島の戦いと、日本語が公用語になったアンガウル州
パラオのペリリュー島の戦い
ペリリュー島の戦いは、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)に、日本軍とアメリカ軍の間で行われた激しい戦いです。この戦いは、日米両軍の死傷者が非常に多く、太平洋戦争の中でも特に悲惨な戦いの一つとして知られています。
戦いの背景と経過
アメリカ軍は、日本本土への進攻ルートを確保するため、ペリリュー島を占領しようとしました。当時、この島には約1万人の日本軍が駐屯していました。日本軍は地下に複雑なトンネルや洞窟を掘り、徹底的な防御体制を築いていました。
昭和19年(1944年)9月15日、約1万の日本軍に対してアメリカは約4万2千人。日本軍の約4倍の兵力で、さらに最新鋭の兵器を多数投入していました。アメリカ軍は「たった数日で終わるだろう」と予想して上陸を開始し、戦艦や巡洋艦からの強力な艦砲射撃、空母艦載機による空爆、そして上陸後には戦車や火炎放射器などを駆使して、日本軍の洞窟陣地を一つずつ攻略しました。
しかし、日本軍の巧みな防御と抵抗によって、戦いは予想をはるかに超える激戦となり、終結までに70日以上もかかりました。日本軍は最後まで降伏せず、1万695名が戦死、生き残ったのはわずか34名でした。
日本軍と住民の関係
ペリリュー島の戦いでは、日本軍の中川州男(なかがわくにお)司令官が、戦闘が始まる前に島の住民約800人全員を他の島に避難させました。
住民は「一緒に戦いたい」と申し出ましたが、「貴様らのような土人と一緒に戦えるか!」と一括して拒否します。
住民たちは今まで家族のように暮らしてきたのに、あまりの言い方に失望して、村人約800名全員で翌朝、船で島を離れます。が、日本兵が海岸で涙を流しながら手を振る姿を見て、「あれは自分たちを死なせないために言った言葉だったか」と悟り、島民たちも涙を流しながら永遠の別れを惜しみました。
この中川司令官の判断によって住民の犠牲者はほぼゼロでした。この住民を守るという行動が、戦後もパラオの人々から深く感謝され、現在の親日感情につながる大きな理由の一つとなっています。
パラオで日本語が公用語に?
パラオには日本語が公用語として認められている地域が一つだけあります。それは、アンガウル州です。アンガウル州では、パラオ語と英語に加えて、日本語も公用語として憲法で定められています。
これは、日本の統治時代(大正3年(1914年)〜昭和20年(1945年))に、多くの日本人が移住し、日本語が広く使われていた名残です。現在でも、高齢者を中心に日本語を話せる人がおり、日本語の単語がパラオ語に取り入れられていることも珍しくありません。
例えば、「でんわ(電話)」や「だいじょうぶ(大丈夫)」「ツカレナオス(疲れ治す・ビール)」などの日本語がそのまま使われています。また、太郎や花子といった日本の名前を息子や娘につける習慣が現在でも残っています。
この日本語が公用語になっているという事実は、パラオと日本の歴史的なつながりを強く物語っています。
太平洋戦争末期の昭和19年、南国の美しい島・ペリリュー島。そこに、21歳の日本兵士・田丸はいた。漫画家志望の田丸は、その才を買われ、特別な任務を命じられる。それは亡くなった仲間の最期の勇姿を遺族に向けて書き記す「功績係」という仕事だった。
9月15日、米軍におけるペリリュー島攻撃が始まる。襲いかかるのは4万人以上の米軍の精鋭たち。対する日本軍は1万人。繰り返される砲爆撃に鳴りやまない銃声、脳裏にこびりついて離れない兵士たちの悲痛な叫び。隣にいた仲間が一瞬で亡くなり、いつ死ぬかわからない極限状況の中で耐えがたい飢えや渇き、伝染病にも襲われる。日本軍は次第に追い詰められ、玉砕すらも禁じられ、苦し紛れの時間稼ぎで満身創痍のまま持久戦を強いられてゆく――。
田丸は仲間の死を、時に嘘を交えて美談に仕立てる。正しいこと、それが何か分からないまま…。そんな彼の支えとなったのは、同期ながら頼れる上等兵・吉敷だった。2人は共に励ましあい、苦悩を分かち合いながら、特別な絆を育んでいく。
一人一人それぞれに生活があり、家族がいた。誰一人、死にたくなどなかった。ただ、愛する者たちの元へ帰りたかった。最後まで生き残った日本兵はわずか34人。過酷で残酷な世界でなんとか懸命に生きようとした田丸と吉敷。若き兵士2人が狂気の戦場で見たものとは――。
1944年9月から始まったペリリュー島での戦いは70日以上に及び、 駐留する日本軍1万は ほぼ全滅。 かたや米軍も多大な損害を被るなど、 戦史に特筆すべき戦いとなりました。 なぜ日米両軍は、そこまでして争奪戦を繰り広げたのか? また米軍の損害が飛び抜けて多かったのはなぜなのか? 生還者の証言を交えつつ、その真実に迫っていきましょう。


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